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秋葉街道和田宿プラットフォーム ワダパゴス

和田宿について

いつの時代も遠山郷の「中心!センター!へそ!」

遠山郷は信州の最南端。
急峻なV字の谷間に沿って、南北に細長く伸びる地理的に孤立した空間の中にある。
長く自給自足の生活を強いられてきたわけだが、
なぜか独自の進化を遂げているナゾの地である。

①山の中にポツンと「城下町」-戦国時代は遠山氏の「城下町」だった!

今でこそ僻遠の不便な地だと思われがちな遠山郷。
しかし領主遠山氏は和田の地に城を築城。三代にわたって遠山郷を治めた。

交通の便がよく領国の政治的,経済的中枢をなす平野地帯の枢要の地と判断したためだと思われる。
盛平山と遠山川の間に広がり、和田城の外廓の役割を果たしていたのが現在の和田本町地区。

城下町では城郭を中心に武家居住地,町屋 (商人町,職人町) ,寺社などが区分された。
現在に残る尾屋敷、殿町、桜門前、的場といった地名は、当時の名残であると推測される。
かの武田信玄も、元亀3年(1572)に遠江(現・静岡県浜松市周辺)方面に向かうため和田を通過。

ここから青崩峠を越え遠江に向かっている。

②江戸時代には秋葉街道の「宿場町」-縄文時代からの塩の道だった!

縄文時代から、海へ出る道、海から塩を信州へ運ぶ道、西日本との交流の道として利用。

中央構造線に沿うこ道は、直線でかつ、大きな川がないため交通路として盛んに使用された。
中世南北朝争乱時代・戦国動乱期には、軍用路。江戸時代からは秋葉神社への参詣の道。

この街道には多くの城館跡、神社、遺跡、伝説が残る、今でもナゾ多き道なのだ。

その中で、和田宿は、秋葉神社を詣でる庶民、物資を運ぶ商人などで賑わい宿場町が発達した。

街道沿いには「せがい造り」の伝統家屋も。

「せがい造り」は「出桁造り」ともいわれ、2階部分を手前にせり出して、軒を深くしているのが特徴。この軒下で、旅人たちが休憩したり雨宿りをしていたことでしょう。

③明治・大正時代には「一大繁華街」―「遠山天国」と呼ばれた!

江戸時代から林業が基幹産業であったが、明治に入ると王子製紙が参入。

林業に携わる人々、そして旅人や商人により繁華街としても大きく賑わった。

現金収入を手にした山林労働者たちは和田の街にくりだし、料亭で豪勢な遊びを楽しんだ。

和田宿には多くの料亭が立ち並び、明治40年には、飲食店は20軒、商業の中では最も多い業種となるほど。当時「遠山天国」と呼ばれるほどの一大繁華街であった。 

④昭和時代には多種多様な「職人街」

商いのまち、職人のまち。

林業、豆腐屋、肉屋、菓子店、今川焼屋、あわ焼屋、キューピー焼屋、豆せんべい屋、雑貨店、ノコギリ店、荒物屋、鍛冶屋、鋳掛屋、呉服屋、仕立屋、衣料品屋、下駄屋、履物屋、綿打ち屋、くるみ割り屋、製麺所、米屋、味噌屋、醤油屋、油店、蒟蒻屋、薬種商、小間物問屋、籠屋、家具屋、建具屋、畳屋、ボロ屋、自転車屋、運送屋、運搬屋、便利屋、タクシー、ラジオ店、時計店、木造船部品製造業、床場、美容室、按摩屋、マッサージ屋、どぶろく製造業、酒店、タバコ店、塩干魚屋、写真館、パチンコ屋、ビンゴ、スマートボール、劇場・・・・・・・・・ありとあらゆる商い、職の集積地。

たくさんのお店がひしめきあい、同業者の競争も激化。パチンコ店は5軒、肉屋は8軒、豆腐屋は14軒もあったとか。

 

様々な職種とそれを担う職人たちによって形成されてきた和田のまち。

歩いて廻ることができる限られた範囲に、人々の生活に必要な職業の店、職人たちがそろっていて、遠山の人々は地形的に閉ざされた環境にあっても、谷の外に頼ることなく生きていくことができた。

和田と言うまちは、城下町、宿場町、それぞれの時代を経て、遠山郷の政治・経済・文化・教育の中心地になっていったのだ。

 

そして現代は稀にみる
奇跡の「山間のコンパクトシティ」

コンパクトシティとは持続的な成長を実現できるよう社会インフラが賢く使える集約型の都市のこと。
全国各地であっちもこっちも「コンパクトシティーの推進」なんてのをしています。

ところが遠山郷はすでに「コンパクトシティ」。先人たちが長い歴史の中でつくってきてくれたこのカタチ。
遠山郷和田宿には、龍淵寺というお寺があって、【龍淵寺の鐘の音が聞こえる範囲=歩いて行ける範囲】に、役場・学校・公民館・病院・郵便局・銀行・お店屋さん・温泉・・・・がコンパクトにほどよく「ちょうどよく」まとまっています。

山ン中だけど、最先端のコンパクトシティ。遠山郷和田宿はけっこうススンじゃってるのです!

 

 

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