420年余の時を経て薬師如来復元
投稿日:2020年6月23日 投稿者:
420年余の時を経て薬師如来復元
現代に蘇った薬師如来
(「龍淵寺たより」2020年6月号より 文:盛宣隆住職)
SBCラジオ・伊那谷めぐりあいのコーナーで、龍淵寺のことが紹介されます。
◼︎ 6月25日(木) 午後1:08~1:15 和田宿龍淵寺の和尚さん。
遠山谷最古の仏像といわれる薬師如来像についてお話してくれます。
「薬師如来は医療の指導者。今まさに必要な存在」です。
………
仏像界のドクターと言われる薬師如来。
世界中が新型のウィルスに脅かされている今。
奮闘している全ての医療従事者に激励のエールを送りましょう。
………
コロナリスクの中、献身的に医療に従事する人々。
その最前線で活躍する医師や看護師の姿を見ていると、
仏像界の薬師如来や、脇侍の日光・月光菩薩、十二神将を連想します。
仏像界のドクターといえば薬師如来。
別名「医王」とも言われ、人々の病患を救ってくださるとともに、
悟りの世界へ導いて下さる仏様です。
歴史を振り返ってみると、
大勢の人々が病気平癒を願って、一心に祈りを捧げ乗り越えてきました。
現世利益的な役割を担う地域の仏様のなかでも圧倒的に篤い信仰や崇敬を集めてきました。
薬師如来は右手に薬の入った薬壺を乗せ、
左手は施無畏の印を結んでいます。
(畏れることを無きを施す、と読み、何物も畏れない力を与えて安心させる印相です)
(朝日新聞社「マンガで教養 やさしい仏像」より)
脇侍の日光・月光菩薩は、看護師として、
昼も夜も病人の看護に従事してくれます。
更に、薬師如来が民衆を救うために立てた十二の請願を守護するのが十二神将です。
天部に属する神様で、医療従事者の化身と言っても良いでしょう。
眷属(家来)とも言います。
過去の歴史を繙いてみると、薬師如来が多く作られ、信仰された時代は、
疫病が流行った時期と重なります。
■遠山郷の歴史を物語る薬師様
遠山郷の薬師様と言えば、本町の高平にあった薬師堂や、
正善寺の本尊様が思い浮かびます。
今でも高平には地元の人に愛されている山桜があり、
「薬師様の桜」と親しみを込めて呼ばれています。
(最近、遠くから見ると、ゴジラの横顔に見えると話題です)
古文書によると、高平山正善寺は龍淵寺の末寺第1号で、
龍淵寺の5世徹岸洞廓和尚によって、文禄3年(1594年)5月、旧和田村高平に創建されました。
文禄といえば、文禄の役で豊臣秀吉が明を征服する目的で朝鮮に出兵した頃のことです。
以後、正善寺は明治6年(1873年)2月、23世泰道明山和尚の時に廃寺になるまで、
約280年間続きました。
このお寺の本尊が薬師如来(正式には薬師瑠璃光如来)で、遠山谷では最古の仏像と言われています。
今年で426年間、人々の信仰を集めてきた仏像です。
遠山谷に生きた人々の悲しみ苦しみを見つめてきた仏様です。
鬱積した感情、怒りの顔、苦渋の姿を静かに見守って来られました。
遠山郷では、
享保の大飢饉(1723~33年)による大凶作のため、
旧和田村の人口880人のうち、320人が餓死。
寛政8年(1796年)天然痘の大流行。
明治27~31年(1894~98年)天然痘・赤痢の大流行により死者289名。
大正7~8年(1918~1919年)スペイン風邪大流行により死者多数。
昭和16年、19年にも赤痢の感染により多くの人々が亡くなった歴史があります。
(南信濃村史「遠山」などを参照)
■地蔵から薬師に姿を変え
薬師如来は、木造彩色の座像で、座高は約20センチ。
台座を含めると50センチほどの小振りの仏像ですが、
螺髪は細かく、肉髻珠と百毫と玉眼はガラス玉で作られています。
ふっくらした顔立ち、着衣の襞は深くて力強く作られています。
しかし、薬壺を持つ手は失われ、
右手の指も損傷が激しく、痛々しい姿でした。
ところが表情は穏やかで、温かく見守って下さるような心休まる仏像です。
胸の前が大きくはだけているのは、広く大きな胸に抱かれ、
温かく包んでくださっているからでしょう。
郷土史家の故・市村咸人氏は、
「遠山氏史蹟」のなかでこの仏像について
「その様式手法は、鎌倉末期に属し、
遠山氏が鎌倉より迎えてきたものであろうか」と推定しています。
その根拠は、正善寺が文禄3年に創建される以前、
高平には薬師堂があり、民衆の信仰を集めていたからです。
市村氏によれば、鎌倉時代に最明寺時頼(北条時頼)がこの地を通り、
武運長久を祈願して、当時の名主数右衛門(大屋・佐藤家の祖)に命じ、
一振りの宝剣を縁の下に埋めたという伝説があります。
しかし、その真偽のほどは決めがたいと述べています。
また同氏は「伊那神社仏閣記」の遠山庄の条に、
御朱印10石のうち3石は、鎮守薬師堂領となり、とあるところから、
この薬師は和田城の鎮守として遠山氏の崇拝を集めていたが、
やがてここに寺を建て、この薬師仏を本尊にしたのであろう、と推測しています。
正善寺が廃寺になった後は、同寺の寺地の一隅に小堂が建てられ、
薬師如来は長い間安置されていましたが、二十数年前から龍淵寺で祀られるようになりました。
飯田美術博物館の織田顕行学芸員(仏像専門)によると、
その様式から推測して、創建当時(室町時代後期)のものと思われ、
台座(蓮華座)との一体感がないことから、
台座は後から設えたものと思われる、と述べています。
薬師堂が、執権北条時頼の時代に存在していたとすれば、
薬師如来が鎌倉末期の作というのも頷けますが、その真偽は不明です。
しかし、江儀遠山庄が鎌倉鶴岡八幡宮の荘園となったのが、
建保2年(1214年)の頃で、当時地頭職が置かれていたので、
鎌倉幕府とつながりがあったことは明白です。
4月下旬、春日井市で仏像修復を専門に手懸ける職人により、
約2ヵ月かけて復元されました。
職人によると、この薬師如来は、
元の「地蔵菩薩」を作り変えた可能性が高い、との報告を受けました。
これは驚きの発見でした。
過去にもこういうケースはあるようですが、
薬師如来誕生の謎が深まります。
■復元された薬師如来
コロナ禍の終息を願って祈りの日々が続くなか、
2月になって新型コロナウィルス感染拡大が報道されると、
この薬師如来を是非御開帳してほしいと地元住民からの要望がありました。
しかし、長い歴史の過程で満身創痍のお姿となった
薬師様の御開帳は忍びなく、
早速、仏像専門の学芸員のアドバイスを受け、修復することになりました。
こうして、4月17日、修復された薬師如来坐像を再びお迎えしました。
特注の厨子に納められた薬師様は燦然と金色に輝き、
すっかり見違えるばかりの美しい姿になっていました。
まるで「いま」作られたばかりの仏像のようでした。
遠山郷の歴史を物語る存在としての薬師如来は、
今まさに必要な存在でもあります。
新型コロナウィルスの収束や、病気の平癒を願って、
皆さんとともに手を合わせ、
真言(マントラ)をお唱えしましょう。
―オンコロコロ センダギ マトウギ ソワカ―
ああ!なんと素晴らしい、
センダリ(チャンダーリー)マトウギ(マータンギー)の神よ。
病を素早く取り払いたまえ!
コロナウィルスとの戦いはまだしばらく続きます。
しかし、明けない夜はありません。
嵐もいつか去ります。火も必ず消えます。
現代医学の知識や治療に基づき、
慎重に対策をとることも大切ですが、祈る心も大切です。
穏やかな日々が再び訪れることを皆さんとともにお祈りしたいものです。
―オンコロコロ センダギ マトウギ ソワカ―
(復元の話題は地元紙でも紹介された)
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